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池田司について

私の土佐での物語は脱サラ直後、200889月に行った四国八十八ヶ所霊場歩き遍路から始まる。

その前に・・・・・

もっと以前の私を振り返りましょう。農業を志した動機が分かります。
池田司の<プロフィール・経歴>ですね。

【生まれ】
1972
825日千葉県東金市生まれ おとめ座でも(照)
【趣味】
・安上がりにできる運動全般(ジョギングなど。現在は水泳)
・ブログ(おもろいネタを考えながらニヤニヤしている)
・ギター(ヘタっぴ)
・妄想全般
・日帰り温泉(サウナ大好き2時間居ても平気)
・おりゃうり(お料理ではない。テキトー・自己流)
・とか。昔は釣りとかもっとたくさんあったけど今はそんな時間はない。
【学歴】
・千葉県立長生高校理数科(落ちこぼれ)
・弘前大学理学部生物学科遺伝子工学専攻(勉強よりハンドボール部・宴会部専攻)
・奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科修了(生物学を猛烈にやった。でも研究はつまらなかった。博士号を馬鹿にしてたので修士でおしまい)
【職歴と農業までの道のり】
・バイオベンチャー企業(東京)で技術系の営業、研究機関との共同研究
・大手商社系のバイオ(インフォマティクス)部門(東京)の新規事業開拓など

私の所属していた業界は医療の研究者を支援するソフトウェアやツールを提供していた。だが、この頃人間の命ばかりを重視する医療研究に疑問を感じはじめてもいた。

人類の寿命ばかり延ばしたら人口が増加する。これは食糧難を助長し結局自分の首を絞めるようで矛盾する。人類が増加することは即ち他の生命を駆逐することにつながるのではないか?地球は人類だけが繁栄するためにあるのじゃない。そう考え、他の生命との共生を目指す農業を志した。

いや、それだけじゃない。都会の喧騒・ストレス、ピカピカなネオンに嫌気がさしていたのだ。何故人間は便利だがストレスの多い住みにくい過密な都会に集まるのだろう?

私が通勤していた電車は東急田園都市線や東西線。乗車率300%というケージ飼いの鶏よりも高密度な箱の中に押し込められ、都会人特有の高いストレスによって引き起こされた強烈なオヤジの口臭に顔をそむけ必死に耐えている内に、なぜ自分がここに存在しているのか。理由が分からなくなってしまった。一体ボクは何のために生まれたの?

世間では日本の食糧自給率が30%代になったと騒がれているまさにその時だった。

新規事業の開拓という仕事から、新しいことを始めるために下調べを徹底してやる癖がついていた。バイオインフォマティクス(遺伝子情報工学)の分野で世界を変えてやろうという野心を持っていたのだ。

この時期に離婚を経験。たった1年半の結婚生活だった。

そのため、サラリーマンを辞める前に農業に関する本を片っ端から読み漁り、またネットで情報を集めまくった。どうせやるなら自分のライフスタイルを充実させるだけの農業ではなく、未来の子供たちのために自給率を90%位に上げて引き渡そうと考えたのだ。そしてこれからの農業で主流を掴むには販売や経営感覚を身に着ける必要があると結論を出した。

そこで行動に移る。自分はまだ早い。

・大手流通企業にSV(スーパーバイザー)職候補としてキャリア転職。愛・地球博の万博の年で中部支社に即戦力を持つ新たな人材が欲しいとのことで名古屋へ。

できたばかりの中部国際空港内の超多忙店舗での店舗研修を終え、約半年後名古屋市内の住宅街にある本部直営コンビニで店長へ。約1年後、販売・接客・経営のスキルを高めてスーパーバイザーへ。

・中部支社内の北陸地方でオーナー店10店舗の経営を指導することになる。

1年経験を積み、販売や経営指導のノウハウが多少なりとも向上したと思えたのでそろそろ勉強を終了し、いよいよ農業に向かおうとしていた頃、ある出会いがあった。

NHK4夜連続の土曜ドラマ「迷子の大人たち」が放映されたのだ。予告をチラと観て無性に心を動かされるものがあった。仕事の関係で見逃してしまったので、再放送で全部を見て更にDVDを購入し20回以上繰り返し見て四国遍路への憧れを抱く。

歩いてみたい。

事情はともあれ、ずっと心に残り続けていた罪悪感。息子に父親として常に傍に居てやれなかった罪悪感を断ち切りたかったのかも知れない。

辞表提出前後の三ヶ月間。全長1200劼箸1300劼箸盡世錣譴詈從道を歩き通すために北陸の1000m級の山を毎週末登山してサラリーマンで弱った足腰を鍛え直した。そして2008819日。いざ四国八十八ヶ所歩き遍路の旅へ。

820日朝。徳島の一番札所霊山寺前の遍路用品店で遍路装束一式を買い揃え、その場でまっさらな白装束に着替え直し、緊張の面持ちで霊山寺山門前に立った。

私は歩き遍路をするに当り、一つ心に決めていたことがあった。それは、常に楽しんで歩こうということだった。

苦しい、苦しい、の連続は暗い未来を作る。楽しい、楽しい、の連続は明るい未来を作るだろう。

未知なる農業を始めるために心構えを試したかったのかもしれない。

ここから全長1300劼箸盡世錣譴觧郵駟從道をひたすら歩く旅が始まり、41日後の929日に八十八番札所、香川と徳島の県境にある大窪寺に無事通しで結願。

詳細は生産者ブログにあります。ブログ内のカテゴリ「四国遍路」です。

さっぱりとした気分で一旦実家に戻り、ようやく農業へ向けての転身の準備にかかる。

一口に農業と言っても選択肢がたくさんある。就農形態(農業法人への就職なのか独立経営なのか)、作る作物の選択・作型(ハウスなのか露地なのか)・出荷先(JAか直販か)などなど。

まず農業の実態を知りたいと思い、車泊しながら全国の農業法人や自治体の農業普及所などへ視察や農業体験を繰り返した。そんな中である思いが芽生える。

どうせ農業やるならお遍路の時に「お接待」で度重なるご恩を受けた四国で恩返しみたいなことができないだろうか?更に今度は自分がお遍路で歩いている人にお接待ができたら・・・・・

そう考え就農地を四国に決定。その際に条件不利地でも直販が可能なように当ホームページを構築。

高知県と愛媛県で迷った挙句、20102月。まず高知県大豊町に上陸。有機農家さんで農業研修を始める。始めてみると養鶏の勉強ができる約束が、話が違った。まだ研修手当をもらう前だったので即日終了。ウソはイカン。

次に高知の就農情報を集めるために、四万十町(旧窪川町)にある窪川アグリ体験塾へ入塾。

そこで知り合った恩人の導きで4ヶ月後に高知県西部の四万十市へ。この時点ではバイトしながらお隣の黒潮町で就農しようと考えていた。


しかし4ヶ月後に縁あって現在の【ニワトリノニワ】がある、四万十川河口の総面積15000屬發旅さの土地を借りられることになり、周りの友人・知人の温かい助けを得て自力で鶏舎と作業所・事務所を建設。2011222日から500羽の鶏を放し飼い・有精卵・こだわりのエサ、の方法で飼い始める。

当初近くの放し飼い養鶏場から委託生産を依頼されていたのだが、産卵の始まる直前の5月に経営悪化を理由に突然買い取りを断られ、経営破綻の岐路に立たされることに。

この時友人の紹介により、香美市のデザイナー・梅原真さんを紹介される。梅原さんは既に全国から地方再生を依頼される有名人だったので一度面会後仕事の開始は翌年になるかな、と言われていた。

そして自分なりに販路を少しずつ広げ、食費が一日200円というギリギリの生活になんとか耐えて10月になった。突然梅原さんから10月の半ばに一度現場を見に行くと連絡がある。

NHKさんも一緒だけど、エエか?」

この時NHKのプロフェッショナルという番組の密着取材が梅原真さんを追っていた。そしてどういう経緯かは不明だが予定を早めて当時【ねはんの里】という屋号だった当養鶏場の卵パックのデザインが実行され、その工程が取材されて行った・・・・・


ねはんの里という屋号は梅原真さんにより【ニワトリノニワ】へと生まれ変わり、商品名も生専用の新鮮玉子の意味で私がつけた「なません」から「池田なません」へと一新し、ラベルのロゴデザインが完成した。これが201111月末のこと。

香美市の物部川近くにある梅原真デザイン事務所で梅原さんからデザインの説明を受け、一目で気に入ったそのデザイン。その様子が撮影されていたのだけど、私は表情に喜怒哀楽が出ないので全く無感動に映っていたかも知れぬ。だが、実際には・・・

20111128日。その日のブログで私はこう締めくくっている。


お遍路の最も重要なアイテムに金剛杖がある。普通に山を登る時にも使うこの杖だが、四国遍路用のものには「同行二人」と書かれてある。

お大師様が杖へと化身し辛い遍路道を一緒に歩いてくれるのだ。だから、遍路の足跡は常に3つ。私も3年前に歩き遍路をした時にどれほど助けられたことか・・・・

私はこの度、梅原真さんに卵のラベルデザインという金剛杖を作って頂いた。

3年前、歩いた時には想像もしていなかったのだが今再びここ四国に降り立ち、なんと農業を始めている。

暑くて毎日汗だくになりヘトヘトになって歩いたこの四国の地。1300劼砲盖擇崙擦里蠅髻∈E戮惑澹兇気鵑忘遒辰討發蕕辰親厩堝鷽佑魄りしめ、また一歩ずつ、僕は歩いて行く。

2012.02.18 

南無大師遍照金剛  ニワトリノニワ 代表取締役 池田司